ブログを作成するにあたり、私自身のことを少しずつかいつまんでお話しして、どのようにして私がここに至ったのかをお伝えできたら、と思っていました。
製造業の娘
自宅の1階に工場があり、父は家庭用医療治療器具(布団の下にイオンマットを敷いて寝ている間に弱電流を体内に流し、頭痛、腰痛、肩こりなどをなくす器具)を製造していました。子供の頃の私は、これがどのようなものかなど詳細はまったく分かっていませんでしたが。
小学生の私は、工場で父の仕事を毎日のように手伝っていました。時代は、恐らくバブルに向かってうなぎのぼりの時代で、父の仕事も忙しかったのだと思います。
作業台に並んだ治療器具の本体に製造番号シールを貼っていったり、本体の足部分のねじがむき出しになっているとことに、プラスティックのチョボを入れてから、ボンドを落としこんだ後、本体の通電チェックの検品、そして本体をビニールに入れて、発砲の梱包にきれいに入れていったり、それを筒形のパッケージに入れたり。
何ダースもの梱包が夕方には出来上がっていて、それを近所の広い道までトラックが集荷にくるので、荷台に積み、その荷台に乗った荷物をトラックに載せた後、ち父が押す荷台に私がのり、家まで帰る・・・
学校から帰って、夕方まで父と母のいる工場でお手伝いをし、お駄賃の100円をもらって、近所の駄菓子屋に買いに行く・・・
そんな毎日が今では、とても懐かしく、貴重な時間であったと、心の引き出しに大切に大切にしまっている私です。
戦前生まれの父と母
私は父と母が42歳の時に15歳離れた兄と、13歳離れた姉を持つ次女で生まれました。父と母は昭和7年生まれ。健在の母は現在85歳。
父は、住んでいた鹿児島で空襲に遭い、すべてを失って、家族身一つで親戚のいる大阪に来たとのこと。戦後は、家族を養うため、闇市で何かを売ったり、馬車をひいたりしていたと、多くは語りませんでしたが、お酒を飲んだ時、父が語っていました。
母は現在、愛媛県松山市にある離島、中島、ということろで生まれ育ったので戦火は逃れたとのことです。母の小学校時代は、防空壕を掘って、竹やりを持ち、竹やりで突く練習をしていたとのことです、そして、8月6日の広島原爆投下の時には、愛媛県と広島県の瀬戸内に位置する島なので、母がちょうど自宅の目の前の浜辺に出ていた時、見たことのないヒカリがピカッと光ったとのことでした。またその島の前を、たくさんの駆逐艦に囲まれて、母曰く、戦艦大和が通ったのを見たとも言っています。
そんな戦争を生き抜いてきた両親のもとに生まれたので、何とも言えない厳格というか、何かとうるさい、かたはまりな家に育ちました。
父のマスコット
父は手先が器用で、ラジコン搭載の飛行機を制作し、週末になると木津川に飛ばしに行っていました。父が行くところにはどこでも一緒について行っていました。
朝は、父の行きつけの喫茶店に一緒にカブに乗ってモーニングを食べに行っていました。どんな時も父と一緒。
もちろん、パチンコ屋さんに入るときも一緒。(昔は入店OKでした)
母も大好きですが、父との想い出でパンパンに詰まった幼少期でした。